人のもつ幅(映画『キャロル』感想2)

キャロルを見ての感想のつづき


人は生まれつき正しいのだろうか

正しさの根拠となる法や倫理は人が皆で生きていくために人によってつくられた

美しさや喜びを求める気持ちは

人間という動物の自然な気持ちだ

厳格なコトバがつくられる前から人々の心にあった古式ゆかしき気持ちなのじゃないか

それを気持ちとして大きく手を広げてかき抱くことと、
社会の中で実行に移すこととはまた別である

行動に移さないで気持ちをもつなら自由じゃない?

そういった幅を実行せず表現するのがアートってものじゃないの?

そして責任を取る覚悟があるなら、それを選択するのもまた個人の自由

現代に暮らす人間の一人として、人としての心の幅をもつことすらだめと言われているような窮屈さがあるように感じる

根拠しか拠り所をもたない単純化されたその枠を取り払ってもいい

『自分の感受性くらい』

という茨木のり子さんの詩がある。

私(コティ)は法や倫理は、自分がそれに守ってもらうために、守るのだと思っている。

自分の感受性も同じではないか。

つまり法や倫理を越えて、自力で己の感受性を守ることができるなら、その責任を取りつつなお自由でいられる。
きちっとしたコトバにがんじがらめにされない自己表現。

己で守れるなら、それすら超えたっていい。そういう風にも捉えられないだろうか。

パンク精神と近いだろうか。
  
キャロル(とテレーズ)の行動は、人間のもつそういった「正しくない」一面を私に教えてくれた。

社会に暮らす一人の人間として責任は取りつつ、彼女は彼女という生き物なのだということ、その美しさや哀れさを、その生きざまで教えてくれた。 

見た後に少しときを置いて、そんな風に思いました。

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